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カンディハウス創業者長原實氏 伝記『100年に一度の家具職人』

2016年07月06日

家具のフクタケのつぶやき

“「木の成長を追い越してはいけない」
高校、大学と学生が「織田コレクション」で名作椅子に触れることで、椅子を通じ
「世界に目を向けて欲しいのです。
「若者が街から消えていったら町の将来はない」
「若者が元気に学びそして生活してこそ、街を発展させる原動力となる。
われわれの世代が将来に投資しないでだれがするのですか!」

「出る杭は伸ばすのです」

「ものづくりは人づくり」
「これまでの家具は、家の広さに合わせて作られていますが、これからは家具に合わせて家を造る時代なんですよ」"
5月に発売されたカンディハウスの創業者 長原實氏の自伝。
『100年に一度の家具職人』から長原氏が遺された言葉です。

旭川市の支援のもと約三年間ドイツに留学、中古車でヨーロッパを巡りとある港で北海道産のナラ材を目にした。故郷のミズナラがヨーロッパで家具になっている現実を目の当たりにし長原氏は「小さな怒り」を覚え北海道の木材で作った家具を海外に販売すると心に誓った。

ドイツから帰国し親兄弟から借金し株式会社インテリアセンターを設立。
当時の旭川で婚礼箪笥をはじめとした「箱物」と言われる家具が主流の中、当時はまだ「脚もの」と言われ蔑まれていた椅子を生産。
旭川では全く売れず、たまたま箪笥だらけの展示会会場の中、長原氏の作った椅子があったのを見つけた建築家が東京でなら売れるとアドバイスで東京の小田急百貨店に持込販売したそうです。当時は家具業界はまだ旧態然としていて家具メーカーが作った家具は全て問屋が買い上げデパートや全国の家具屋に流通させる事が当たり前の時代でした。

「反骨の家椅子職人」長原さんが旭川だけで無く日本の家具業界に残した功績は大きい。
家具業界今は当たり前になった事をほぼ全て一番最初にやり結果を出してきた事がこの本を読むとよく分かります。
1968年設立で家具業界の異端児でしかなかった。だったカンディハウスが
今や日本の家具業界のリーディングカンパニーにまで登りつめました。
当時の旭川で婚礼箪笥をはじめとした「箱物」と言われる家具が主流の中、
当時はまだ「脚もの」と言われ蔑まれていた椅子を生産。
婚礼箪笥が主力だった旭川の問屋には相手にされず。
東京のデパートに直接家具を販売。
見て盗めが当たり前の職人集団の家具業界にあって、
デザインの重要性を理解し、ロイヤリティをデザイナーを払い家具を生産。
1973年にはすでにスウェーデンのデザイナー デザイナースチウレ・エング氏を起用しルントオムを発売。改良を重ね未だにトップセールスを誇るチェアを生み出しています。

カンディハウス ルントオムダイニングセット

カンディハウス ルントオムダイニングセット

プレスリリースも行い、メディアを巻き込んで新作の家具ショーを企画、開催。
アメリカとドイツにショールームを作り海外に進出。。。
そしてメーカーの直販。
これらは今では家具業界の常識となっていますが、カンディハウスが創業した1968年では全て業界では非常識であり、タブー視されていた事が大半です。

信念を貫き通し道を切り開いてきただけでしょうが、
異端児として家具問屋や家具販売店、そして家具メーカーから反感を買ったであろう事は想像できます。
痛みは相当なものだったでしょう。
ただカンディハウスには先駆者にあり続けた者にしか無い輝きを放っています。
もしご興味がありましたらこの本を読んで下さい。
カンディハウスの家具買われたお客様にはオススメです。
きっとお使いの家具にさらに愛情が増す事は間違えありません。

そして家具業界で働く者は全て何らかの影響を受けていると言っても過言では無いでしょう。

そう言う私も長原氏が居なければこの業界で仕事をしていないのでは無いかと考える様になっています。

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後日にまた別の形でレポートしますが旭川デザインウィーク2016では新たな取り組みもあり
盛り上がりを見せています。
来年はIFDAの記念すべき10回目。
長原氏が残された一つの形となった現れるのでしょう。
今から楽しみになってきました!

家具のふく岳

小川直樹

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